当ブログでは、当初から「現状認識」というタイトルを多く用いています。
 今回は、このことについて少し書いてみたいと思います。

 私たちは、よく相場の将来の動きを「予測」しようとします。また、現に「予測」しております。「○○なのだから○○になるだろう」「○○になったら○○になるだろう」「○○までは上がるだろう、○○までは下がるだろう」などと予測します。そしてその結果は、多くの場合そういうふうにはなりません。そして「はずれた」ということになります。

 考えるに、相場の先行きを予測するということは、大局的にはファンダメンタルズを的確に分析・判断して行うものであることには、まったくもって異論はありません。自身でもファンダメンタルズに関する事項については、当ブログで触れる事は少ないのですが、自身では押えているつもりではおります。それでも、日々の値動きの予測ともなると、少なくとも自身にとっては、とてもむずかしいところです。

 日々の値動きというものの本質は何なのでしょうか。それは少なくとも市場参加者の、そのときどきの投機行動によるものです。そして、そのときどきの行動の動機というものは、市場参加者の数だけあると言っても過言ではないでしょう。日々の値動きは、「投機家による、そのときどきの投機行動の帰結」と言えるわけです。それだからこそ時々、一般的には解釈出来にくい値動きが見られることにもなります。たとえば、強い勢力をもつ市場参加者が、ファンダメンタルズの側面から強気に解釈される材料が出現したその瞬間から、自らの強気ポジションを解消する投機行動をとるなどということは、私たちはたびたび目にしてきました。

 ○○だから○○となっただとか、○○になるはずだなどという「気持ち」は、市場参加者にとって、時には有害でもあり、危険ですらあります。後(あと)付けの解説などを読み聞きして、それで納得できたとしても、自分のとっているポジションにとって何の意味もなさない類いのものと言えるでしょう。また、後付けなら如何様にも説明出来ます。「相場予測」と言われますが、それは簡単なことではありませんし、そもそもにおいて、それは可能なものなのでしょうか。それとも、相場での損得というものは時の偶然性の結果なのでしょうか。

 「予測」と言われるものがむずかしいのなら、私たちは、これをどう考えたらよいのでしょうか。

 「多種多様な動機に基づく市場参加者のときどきの投機行動のすべては、その値段・値運びに、すべてが投影されているはず」

 自身、長い間自問自答してきましたが、現時点ではこのように割り切って考えるようにしています。
 このように考えるのなら、市場参加者のときどきの多様な行動の、「動機」ではなく、「行動」の総意が投影されるはずの、「値動き・値運び」をこそ観測してゆけばよいことになってくるでしょう。

 そして、現在の自らのポジションが、「現在の値動き・値運びに合致しているかどうか」ということを日々において「観測」し、「確認」を続けてゆく作業こそが、当たり前のことですが、何よりも重要なことになってきます。
 この事ことをして、当ブログでは「現状認識」と題し、日々書き綴っているわけです。

 相場に取り組む上で最も重要なことは、「リスクの管理」にあります。このことについては、今や誰しもが異存のないことだと思います。リスクの管理ということは、「損切り」ということにほかなりません。損をしないようにするのではなく、損を仕切り直しがきくうちに確定してしまうことです。日々の相場の現状認識において、自分の持つポジションが、市場の値運びに合致していないと判断したならば、(黙って何かを待っているのではなく)早いうちに、損の小さいうちに、思い切りよく「損切りして解消」してしまうことこそが何よりも肝要なことだと常々思わされてきました。

何故なら、私たちは自らの命の次に大事な虎の子を、増やすために、あえてリスクをとって、機に乗じるということをしているのですから。